やりすぎって本当に悪いこと?
「2014 JET日本語学校 スピーチコンテスト 努力賞」
ジョシュア・デイビッド・クー・チュー・ウン(マレーシア)
私には癖があります、その癖というのは、一度何かを始めたら、
どうにも止められなくなってしまうのです。
とどめ知らずという事ですね。
例えば、私はこのスピーチを7回も書き直したんです。
人は普通、これを「やり過ぎ」と言いますが、
私はそうとは限らない と思います。
成功者には皆一つの共通点があります。
それは、彼らは誰もが出来ないほど、何かに打ち込んだということです。
その何かを、ものすごいスケールで発揮したからこそ、
誰も成功させられなかった事ができたのです。
その成功者達の一人は、トーマス・エジソン、電球の発明者。
電球の開発に成功するまで、999回も失敗した、と言われています。
普通の人だったら900回どころか、3回失敗したら「もう無理だ、出来る訳がない」と思ってしまうでしょう。
多分エジソンも、友達や家族に「さすがに900回はやり過ぎだよ、もう諦めようよ」と言われたかもしれません。
でも、もしそこで諦めていたら、周りの人たちのアドバイスを聞いていたら、
彼は世界を変える事が出来なかったでしょう。
ひょっとしたら、エジソンは私と同じように、
熱中しすぎてしまうと、完成するまで自分でも自分を止められなかったのかもしれません。
私にとっても、そして多分エジソンにとっても、
「やり過ぎる」というのは「やっている事をしすぎる」ではなく、
「やりたくてやりたくてたまらなくなる」という意味なのかもしれません。
「やり過ぎだ」と言われても、それは褒め言葉にしか聞こえません。
二年前、私もその熱心さを生かして、
日本語の勉強を始めました。
私の日本語の勉強法は、かなり極端で、まさに「やり過ぎ」でした。
母語に関しての物を全部捨てて、
その代わりに日本語の本、映画、ゲームだけにしました。
その二年間、私は毎日、一日中ずうっと自分を日本語で囲みました。
出来るだけ私の母語を避けて、寝ている時もスピーカをつけっぱなしにして日本語を聞きました。
休憩することなんて考えませんでした。
普通の人から見れば、その行動は完全に「やり過ぎ」でしょう。
ですが、そのやり過ぎ的な勉強のし方のおかげで、
私の人生は変わりました。
日本語力だけではなく、自分を変える力、自分がなりたい人間になれる力を手に入れました。
この考え方は多分、私の母から譲り受けたのだと思います。
いつも私にこう言っていました「やるなら、人が期待する以上までやりなさい」と。
母には、「やり過ぎる」は存在しません。「人の予想を超える」事だけです。
ちなみに、母も結構な「やり過ぎ人間」です。
韓国ドラマが好き過ぎて一日中ずうっと観ていられます。
しかも、見る効率を上げるために、常に早送りで見るんです
お母さんも半端じゃないんです。
もちろん、
バランスが良くないとは言っていません。
食べ過ぎたら太る、
休憩を取らなきゃ疲れてしまう。
シャワーは暑過ぎたら駄目。
いろんな事にはバランスが必要。
それはそれでもっともな意見なんですが、
私はいつも真中が一番いいとは限らないと思うのです。
やり過ぎるのは悪いわけではありません、
むしろ、正しく使えば、すごい力になります。
でも、韓国ドラマには気をつけて下さい
くれぐれも観すぎないように。
ジョシュア・デイビッド・クー・チュー・ウン(マレーシア)
私には癖があります、その癖というのは、一度何かを始めたら、
どうにも止められなくなってしまうのです。
とどめ知らずという事ですね。
例えば、私はこのスピーチを7回も書き直したんです。
人は普通、これを「やり過ぎ」と言いますが、
私はそうとは限らない と思います。
成功者には皆一つの共通点があります。
それは、彼らは誰もが出来ないほど、何かに打ち込んだということです。
その何かを、ものすごいスケールで発揮したからこそ、
誰も成功させられなかった事ができたのです。
その成功者達の一人は、トーマス・エジソン、電球の発明者。
電球の開発に成功するまで、999回も失敗した、と言われています。
普通の人だったら900回どころか、3回失敗したら「もう無理だ、出来る訳がない」と思ってしまうでしょう。
多分エジソンも、友達や家族に「さすがに900回はやり過ぎだよ、もう諦めようよ」と言われたかもしれません。
でも、もしそこで諦めていたら、周りの人たちのアドバイスを聞いていたら、
彼は世界を変える事が出来なかったでしょう。
ひょっとしたら、エジソンは私と同じように、
熱中しすぎてしまうと、完成するまで自分でも自分を止められなかったのかもしれません。
私にとっても、そして多分エジソンにとっても、
「やり過ぎる」というのは「やっている事をしすぎる」ではなく、
「やりたくてやりたくてたまらなくなる」という意味なのかもしれません。
「やり過ぎだ」と言われても、それは褒め言葉にしか聞こえません。
二年前、私もその熱心さを生かして、
日本語の勉強を始めました。
私の日本語の勉強法は、かなり極端で、まさに「やり過ぎ」でした。
母語に関しての物を全部捨てて、
その代わりに日本語の本、映画、ゲームだけにしました。
その二年間、私は毎日、一日中ずうっと自分を日本語で囲みました。
出来るだけ私の母語を避けて、寝ている時もスピーカをつけっぱなしにして日本語を聞きました。
休憩することなんて考えませんでした。
普通の人から見れば、その行動は完全に「やり過ぎ」でしょう。
ですが、そのやり過ぎ的な勉強のし方のおかげで、
私の人生は変わりました。
日本語力だけではなく、自分を変える力、自分がなりたい人間になれる力を手に入れました。
この考え方は多分、私の母から譲り受けたのだと思います。
いつも私にこう言っていました「やるなら、人が期待する以上までやりなさい」と。
母には、「やり過ぎる」は存在しません。「人の予想を超える」事だけです。
ちなみに、母も結構な「やり過ぎ人間」です。
韓国ドラマが好き過ぎて一日中ずうっと観ていられます。
しかも、見る効率を上げるために、常に早送りで見るんです
お母さんも半端じゃないんです。
もちろん、
バランスが良くないとは言っていません。
食べ過ぎたら太る、
休憩を取らなきゃ疲れてしまう。
シャワーは暑過ぎたら駄目。
いろんな事にはバランスが必要。
それはそれでもっともな意見なんですが、
私はいつも真中が一番いいとは限らないと思うのです。
やり過ぎるのは悪いわけではありません、
むしろ、正しく使えば、すごい力になります。
でも、韓国ドラマには気をつけて下さい
くれぐれも観すぎないように。